先日父が他界して22年が経ちました。父が他界したのは、私が20歳の時、父が56歳の時でした。
私は4人兄弟の末っ子として、1人だけ遅がけに生まれました。父は戦時中満州で生まれ、祖父の事業で横浜にすみお坊ちゃんで、祖母は満州から帰国の際に他界してしまい何人もの継母さんと祖父に育てられ、羽田空港で働いている時に母と出会い結婚しました。
東京に住んでおり、そのご祖父の郷土である三重に来た時は仕事を1から始め上の兄姉3人の時はお金がなく夜も現場に行き、兄姉たちが歩いた時や、初めて話した時も家にいたことはなかったそうです。
父にとっては遅がけの4番目の私が生まれた時、やっと仕事も軌道に乗り始めてきたため、父は初めて我が子が歩く姿などをみたのはわたしのときだけだったようで、とても可愛がってくれ私も市内の私立の幼稚園に入れていただいたり、たくさんの習い事をさせていただきましたが、残念なことに蛙の子は蛙でして、上3人はビーバップ世代のためグレまくっており、母は兄のボンタン(改造学ラン)をはさみできりきざんだり、バイクのマフラーにぬのをつめこみ、学校から呼び出しあれば父が出ていき、と、しておりましたが、父は決して兄たちや姉を見捨てることなく、みかんの箱を持っては学校に謝りに気て、家に帰れば灰皿(ガラス製)を投げて怒っておりました。
そんな姿を見て育ていたためか、法に触れるようなことや、悪いことはしないでおこうと育ってきた私ですが、頭は相当悪く、4年生の時学級崩壊新任の先生が来たことでして、私もすっかりそこで勉強しない人生を送ることになってしまい、中学生の時もかなりの成績の悪さ、しかし父は私を責めることもない中、父は糖尿病、B型肝炎なども患っており私の小さい頃には病院にはたびたびお世話にはなっていましたが私が中学2年生の時に肝臓癌になり予命宣告されました。
そこからの父は、入退院の繰り返しで、退院しては、仕事をし、入院中も営業をし、病院の食堂で打ち合わせをしたり、脱走して館内放送で呼ばれたりなど、その間兄たちも中卒でしたが仕事を手伝い職人として実家を手伝っていました。
余命宣告され5年でその間色々な病院を点々としておりましたが父は余命宣告越してからも生き続けました。自分が癌であることも今と違い当時はあまり表に出す時代ではありませんでしたが、父は自分が癌であることを普通に話していました。その中で、誰かに少しでも自分も頑張ろうと思ってくれたら、それが今の自分に与えられた使命なのだと、夜中一緒にNHKのドキュメンタリーを見ていたときにそっと言っていました。
私が短大の頃、父はだいぶと弱ってきてはいました、父は自分で遺影の写真を写真館に撮影しに行き、兄に営業の仕方を一緒に連れて歩きみせ、土地のことや、残された会社のことなどすべて準備していました、そして常にアンテナの高い人で、携帯電話や、パソコン、ワープロ、ビデオカメラをかったり、インテリアの免許を取ったり、手帳を毎日書いたりとマメな人でした。他界する1年前にも船舶の免許を取ろうとしており『もうすぐ、死ぬのに免許なんてとってどーすんの?』と、今思えば鬼のような娘だと自分で思うのですが、言ってしまいましたが、父は『そやな』と言いながらも『なんでも死ぬまで挑戦することは大事や、やで死ぬまでタバコもすう』と、
他界した年の7.8ヶ月前に家族全員を病院に呼び先生からの話を聞いてほしいと言われ聞くと、いよいよ父の病状は手のほどこしようのないところまできているとのことで、父は自分の身内は皆癌で60前後で死んできて、延命治療を見たりしていたため、治療はもう今後しないと、在宅での治療を希望し、自宅で過ごすことになりました。私は短大を卒業したものの栄養士の免許に必要な単位を1教科落としてしまったため、科目等履修生として半年単位を取るためにバイトでもしながら、学校へ行こうと思ったのですが、父は絶対に就職しなければ家を出て行けと、中途採用で学校がある日が定休日だったため今もお世話になっている会社に入りました。
父は自宅で毎朝母のつくる、青じそやらなんやら、果物の入ったクソまずい今思えばお手製スムージーを飲んで仕事も電話で、営業の電話をしていましたが、秋頃にはもう腹水が溜まり、お腹は妊婦のようになっていました。父と携帯電話の契約を見直しに行き他界しても大丈夫なように、私の運転で行きましたが歩くのもやっとな感じでした。冬にさしかかると父は、かなりつらそうになってもう死んだほうがマシだともらしたり、もう桜を見ることはないだろうと言いました。
しかしタバコはやめない父。死ぬ数日前に病院に腹水を少し抜きに行くと言って母が連れて行こうとしていた時、玄関で父がスコーンと座り込むように倒れてしまい母のびっくりする声がしたためたまたま休みだった私は病院についていきました。この日が他界した日よりも何よりも1番自分にとって辛い日でした、運転して病院につくと母が車椅子を車まで持ってきているのを、車からボーっと見ながら父が『みてみ、あのひと、やること雑やで俺が死んだ後もあーやってしとるんやろな』とポソっと言いながら、私は父を車椅子に乗せ、母は車で待ち 私が先生の元まで連れて行きずっと一緒にいましたが、いつもの病院に入って行く時、車椅子に乗る父の姿が、私もたくさんの死ぬ間際の親族を見てきているのでどう見ても、もう長くないとことと、父が『まさか自分がこんな風になるとはな』と言った時、私を怒りちらし廊下を追いかけてくる父や、思いっきり平手打ちでぶん殴ってきたあの父が、こんな姿になってしまったことに泣きながら病院の廊下を車椅子で押して歩きました
2階の治療室から4つのエレベータがあり何個もエレベーターが止まるのですが、上から降りてきてるから人がたくさん乗っており乗れなくて、次は乗れると思い前に行っても乗れなくて、その間父は辛そうで、早く乗らせて家に連れて帰りたくて、それが1番なんかつらかった。
それから数日後に父はタバコ吸おうとポロッとおとして、吐血し救急車を呼んで、その間、兄たちが『おやじーーー!!』とさけぶなか、声をしぼりだし『う・るさい…』といったり、『姉をたのむ』と、救急隊の人が来た時『足元きをつけて…』と言ったのが、私が聞き取れた最後でした、救急車を呼んだものの、治療されてる父をみて、『もういいです、もういいです』とわたしは言ってしまい、主治医の先生が来た時に、手術してもういど喋ることくらいはできるかもですが…と話があった時、わたしは『もう、やめてあげてほしい』といいましたが、やはりそばで見ていなかった姉や兄たちはもう1度父と少しでも喋れるならと、『頼む』といわれ手術しましたが、その日の夕方父は、スッと息をひきとりました。
父はどんな時も『自分自身に負けてはならない』と、いつも言っていました。私が苦難の時、姉に言われたは『父の良いところも悪いところもすべて私たち4人は受け継いでいる、私たちは父の子なのだから乗り越えられないことなんてないんや』と、言われてきましたが、今の自分は父の子として自分の子供たちを守れているのか、父が生きてたらなんて言われるのかと、おもうと、全く自分は、父に顔向けできないなと改めて今思うのでした。
久しぶりに父のことを思い返しかなり長い文になってしまいましたが、私の記憶のきろくとしてのこしておきます。